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教えたがる人、稽古したい人。

執筆者の写真: 無刀会 合気道
無刀会 合気道
10月14日
読了時間: 3分


「人の患いは、好んで人の師となるにあり」


孟子のこの言葉を目にして、合気道を始めた頃のことを思い出しました。当時は、先輩に教えてもらえることがありがたく、また、自分が少しずつできるようになると、いつの間にか人に教えることもしていました。


今思えば、私の場合、それは「教える」というより、自分ができるようになったことを誰かに説明したい、という欲求だったのかもしれません。


ところが、自分自身が稽古を重ねるうちに、稽古中にあれこれと説明されることを、次第に負担に感じるようになりました。それでも当時は、相手がそれを求めていなければ、かえって稽古の妨げになるということに思い至りませんでした。まさに「人の患いは、好んで人の師となるにあり」だったのだと思います。


無刀会の稽古でも、先輩が後輩に技を説明したり、相手の技について意見を述べたりする場面を見かけることがあります。教えること自体が悪いわけではありません。相手が技の手順を理解できていないときに教えることは、稽古を成立させるうえで必要です。時と場所、相手が求めているかどうか、そして本当に必要なことなのかを考える必要があると思います。


私は、稽古時間には、道場でしかできないことを大切にしたいと考えています。師範の模範をよく見て、互いに技を掛け合う。相手の動きを感じ、自分の身体で試しながら、技を身につけていく。技について考えたり、自分なりに整理したりすることも大切ですが、それは稽古の最中でなくてもできることです。


技術的なことを詳しく知りたい、もっと完成度を高めたいという気持ちも、よくわかります。しかし、技の錬成は、説明を聞くだけで成し遂げられるものではありません。一人ひとりが日々の稽古を重ね、その身体を通して身につけていくものだと思います。


もう一つ、私が経験から教訓としていることがあります。


ある先生の稽古時間に、別の時間を担当している先生が稽古をしていました。その先生の稽古相手が、稽古している技について質問しました。


すると、その先生は、

「私に指導を受けたいのなら、私の稽古時間に来てください」

と答えました。


その場には、その時間を担当する指導者がいます。その指導者のもとで稽古をしているときに、別の人が指導を始めることは、その指導者に対して失礼にあたる。私はそのように学びました。それ以来、稽古中に質問を受けても、「後にしてください」と伝えるようにしています。


そして今、指導する機会に恵まれた立場となり、心がけていることがあります。それは、稽古人が一回でも多く技を稽古できるようにすることです。


長々と説明するよりも、できるだけ多く技の模範を示す。稽古人には、それをよく見て、実際に身体を動かしながら学んでほしいと思っています。そのためには、私自身がいつでも模範を示せるよう、日々の研鑽を怠らないことが大切です。


教えること、教わること、そして稽古すること。それぞれに大切な意味があります。しかし、道場で過ごす限られた時間を、何に使うのか。そのことを、これからも自分自身に問いながら、稽古を続けていきたいと思います。


合気道の道場で、道着と黒い袴を着た二人の稽古人が向かい合い、稽古している。背景ではほかの稽古人たちが技を掛け合っている。

 
 
 

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